介護保険と非営利はどこへ向かうか
─ 小竹雅子『総介護社会─介護保険から問い直す』 (岩波新書、2018) ─ を読む
九州大学 大学院人間環境学研究院 教授
日本社会学会・理事
福岡ユネスコ協会・理事
介護保険施行から 18 年、介護保険の現状は知れば知るほど分からなくなる。発足当初はもっと目指すところがはっきりしていた。「介護の社会化」だ。超高齢社会における介護リスクを「社会保険」という社会連帯の仕組みでカバーする。従来の福祉の限界であった措置制度から社会保険による契約という利用者本位へと転換する。そして医療化でなく住み慣れた地域での生活支援、自宅が困難なら自宅のような在宅をめざす地域福祉へ。どれもこれも新鮮で正しい方向に思えた。みんながこれだ、と思ったに違いない。だからこそ住民参加型として在宅福祉サービス活動をしてきたボランティア団体や NPO 法人などは、こぞって介護保険の指定居宅サービス事業者になっていった。介護保険は超高齢社会の問題解決の観点からも市民福祉の観点からも期待の星だったはずだ。
それが予想を上回る利用の急増とともに、厚労省の関心の中心は財政的な観点からの「制度の持続可能性」へと 切り替わってきた。すると介護保険はどこへ向かうのか、行く先が蜃気楼のようにぼやけてきた。法改正のたびに制度は複雑になり、普通の人には理解が困難とまで言われるようになった。著者の小竹雅子は介護保険の発足前から、介護保険をウォッチしてきた市民福祉の人。この制度の全貌を分かりやすく紹介し、もういちどどこへ向かうのか市民の側から問題提起しようとしている。本書の構成は次のようだ。まず介護保険の背景を示し、介護保険を使う人たち、そして介護現場で働く人たちを紹介したあと、介護保険の仕組み、介護保険の使い方、介護保険にかかるおカネ、という制度の利用法についての紹介となる。ここまでは、類書とさほど大きな違いはない。しかしそのあと「なぜ、サービスは使いづらいのか」と「介護保険を問い直す」という最後におかれた 2 章は、押さえた筆致ながら、長年見続けてきた介護保険制度の問題や課題について的確に指摘しており、本書のハイライトといえる。
この本の特徴は、近年出版された『介護保険制度史』(2016)や大森彌『老いを拓く社会システム―介護保険の歩 みと自治行政』(2018)、それに大熊由紀子『物語介護保険』(2010)などと比較するとより明らかになる。これら 3 冊は、介護保険を作った当事者たちによる波瀾万丈のサクセス・ストーリー、いかに困難な状況の中から奇跡的に介護保険制度が成立したかを、政治、行政、議会、労組や業界団体、市民団体等のキーパーソンの動きを中心に明らかにしている。これらを読むと、介護保険制度は、なんと素晴らしいものか(ものだったか)と思わされる。困難な状況の中から、ビジョンを掲げた人たちが現れ、それを厚生労働省を中心とした有能な人たちが地道に支えて、最後には政治党派を超えた協力体制で法律が成立した、という制度づくりのヒーローたちのサクセス・ストーリーなのだ。じっさいにそうだったのかもしれない。20 世紀の最後の 20 年くらいは、バブルははじけたものの、超高齢社会という新たな社会変動へ向けて積極的な取り組みが可能だった幸せな時代だったのだろう。今日から見ると『物語介護保険』や『介護保険制度史』の当時は、夢と理想の時代だったのだ。現在とは隔世の感がある。
さて、本書は、上記のような制度形成史には現れてこない人たちの視点で描かれている。それは、介護保険制度を利用しながら「介護のある暮らし」を生きようとする人たちの視点である。
介護保険は、なぜ使いづらいのか
本書の白眉である 6 章「なぜ、サービスは使いづらいのか」と 7 章「介護保険を問い直す」を中心にそれを紹介しよう。6 章では、介護保険サービスが使いづらい理由として、最初に、制度を改正していく仕組みの中に問題があることが指摘されている。改正の方向をきめていく審議会の仕組みと実施との間にも大きなずれやタイムラグがある。そしてこの制度改正の仕組みの中に、利用者の声を代表・代弁する仕組みがない(あるいは弱い)ことと、政治とコーポラティズム(業界団体)の主導による大枠の決定、そして細部はすべて厚労省が決定していくという、上からの制度改正のあり方に問題があることが示唆されている。たとえば社会保障審議会などで「厚労省が委員を選ぶ基準を説明したことはありません」「介護保険部会、介護給付費分科会ともに女性の割合は 1 割にとどまります」と指摘している。問題の 2 つめはケアプランのあり方である。「ケアプランはケアマネージャーがつくるもの」という現在浸透している常識が、利用者本位という当初のビジョンと真逆であること、要支援の人はケアマネージャーを選べないという矛盾(軽度の人ほど自力や主体性が発揮できるはずなのに)、介護予防をめぐる右往左往の結果、予防や「自立」という概念が導入されて利用者本位からさらに逸脱していく過程などが描かれている(介護が必要という現状と、自立を求めるという政策的誘導との矛盾)。「地域包括ケアシステム」にしても、地域ケア会議なども「ケアプランをつくる主役であるはずの認定を受けた本人や、家族など介護をする人が、地域ケア会議のメンバーにラインナップされていない」。結果として、利用者ではなく供給サイド主導で、効率的で「包括的」な制度にされていくのではないか。ケアマネージャーの独立性や専門性にも問題がありそうだ。問題の 3 つめが「ホームヘルプ・サービスの受難」。受難とはうまい表現だ。じつは介護保険発足時に、もっとも利用されたのがホームヘルプ・サービス(訪問介護)だったのだが、現状では福祉用具レンタルとデイサービスについで 3 番目になっている。自然とそうなったわけではなく、利用抑制の標的になったからだ。しかも確たる根拠なく、というのが「受難」に込められた意味だろう。もうすこし詳しく見てみよう。
ホームヘルプの「受難」
この部分は、本書の中でも白眉と言える部分だ。
そもそも介護保険がなぜ広範な支持を集めて発足したかと言えば、「福祉」対象者以外にも要介護リスクが幅広く存在しており、家族や近隣では支えきれなくなってきたからだ。要介護リスクは、ごく普通の高齢者にも発生するので、低所得者などに限定された福祉システムではカバーしきれない、ゆえに、1980 年代から様々なボランティア団体などが住民参加型在宅福祉サービス活動を行ってきたのだ。家事援助、生活援助、ホームヘルプ、「ふれあい・たすけあい活動」など様々な呼び方があるこれらこそ、福祉対象でない普通の市民にとって、介護保険へとつながる重要な入り口だったのだ。ボランティア団体から NPO 法人になった団体が、介護保険事業者となったのも、多くはこの訪問介護事業だった。しかし早くから「家事援助は、介護保険にそぐわない」という意見と「家事・生活援助がないと、高齢者は施設に入所せざるをえない」という意見との対立があった。重度化したらカバーするという論理と、軽度のうちから支援するという論理との違いだ。どちらにも理があるのだが、介護保険財政が逼迫してくると、保険範囲を限定し、家事援助や生活援助、要支援などを介護保険からはずしていく流れに切り替わった。これはかなり根本的な変更だ。介護保険の重要な目的のひとつを自己否定することでもあるからだ。この流れに従っていくと、介護保険は重度化した人の施設入所へと集約されていくことになるだろう。それは介護保険の当初の目的とは大きくずれている。
しかもその特養等の施設も大きな矛盾を抱えている。それは総量規制で特養等は増やせない(増やさない)からだ。そこで施設入所にあたっては要介護度 3 以上が原則になったり、廃止されることになっていた介護療養病床を継続することになったりと、方針がふらつく。こうなると医療と介護とをわざわざ分離して介護保険という仕組みをつくってきたのはなぜなのか、根本的なところが不分明になる。
「施設でない施設」
「自宅でない在宅」が、宅老所や認知症グループホーム等だとしたら、「施設でない施設」が「特定施設」、つまり「介護付き有料老人ホーム」や国交省が推進する「サービス付き高齢者住宅」ということになる。こうした存在の需要が伸びているという。特定施設などは、介護保険の内と外との境界線上にある存在で、「施設でない施設」。本書では、特養不足をこうした「特定施設」のような「施設でない施設」で解決していって良いのだろうか、との批判意識が込められている。施設の建設はコスト(行政にとっての)がかかりすぎる、そこで民間の事業者が「特定施設」を建築して、自宅では暮らせない人たちのための受け皿になっているのだろう。ここにも、制度の持続可能性を求めるベクトルと、実際の社会ニーズとのずれがあることが示されている。
介護保険の根本問題─介護報酬の決め方
7 章で小竹は介護保険の根本的な問題点をいくつも列挙している。介護保険に関心ある誰もが、みな、うすうす感じていた疑問を、はっきり明確にコトバにしたという印象だ。
問題の第 1 が、介護報酬の決め方だ。これが制度を複雑怪奇なものにさせ、事業者を混乱させ、介護職の離職を増大させ、制度の行く先を五里霧中にさせている。介護報酬の決め方(決まり方)は、矛盾とパラドクスにとんでいる。誰がどのような理由でどう決めているのか。そもそも、それはどのような「報酬」なのか。そう考えるとここには医療保険との強い類似性が働いていることがわかる。医療も介護も、厚労省が詳細な利用と経営のデータを「ビ ッグデータ」として集約しており、それを解析して報酬の増減を決めているらしい。本書の「介護報酬の推移」という表を見ると、サービス内容や提供時間を、事業者ごとに、厳密に把握して、その総量の推移をシミュレーションしながら総額のコントロールと、個別のサービスの報酬額を決めているらしいことが分かる。まさにこれはコンピュ ータを末端の事業所まで浸透させたうえで、日々刻々「ビッグデータ」を吸い上げ、個々のサービス種目の単価や流通量を監視して、総額が急増急減しないよう監視している「ビッグブラザー」のようなシステムが働いていることを示している。そして 3 年に 1 度の介護報酬改定の際には、多変量解析のような高度な分析手法を駆使して、多様なファクターを動かしながら個々のサービスの報酬単価を、加算・減算を繰り返しながら調整し、全体としての介護報酬総額の増減を決定しているようだ。いわば巨大な中央集権システム、もはや古語となったかに思われていた「管理社会」が、介護保険などの「社会保険」の世界にはどっこい生きていた。中央以外の裾野(要支援などの「地域包括ケアシステム」部分)では、保険者たる地方自治体に任せる分散処理的なところもあるが、骨格は「ビッグデ ータ」を随時把握しながら管理運営される巨大システムなのだ。なるほど、これでは、個々の事業者や利用者や一般市民などが、介護報酬に関してあれこれ口を夾めるようなものではない。しかしこれは小竹の考える「市民福祉」のあり方の対極の姿だろう。介護の社会化を標榜し、政府や厚労省が努力を傾けたら、市民福祉の対極にあるものができあがってしまったという逆説。全体を把握するのは中央のシステムだけで、個々の事業者や利用者は個別のエピソード的な存在にすぎない。システム全体は大きすぎて少しの改定にも数年かかるようなしろものである。
しかし、これは政策モデルとしては分かりやすいが本当にうまく機能し続けることのできるシステムなのだろうか。社会主義国家を持ち出すまでもなく、「ビッグデータ」を駆使するとシミュレーションの上では効率的に動くはずの「システム」が、結局は巨大すぎて、小さな綻びが集積すると全体として機能しなくなった歴史的経験がある。介護保険でも「ビッグデータ」を駆使して制度の持続可能性を維持しようとする方法は、いつか急速に逆機能しはじめるのではないか。財政は持続可能でも、それを支える人々はどうか。その兆しはすでに介護職の離職率の高さや、介護業界の人手不足などの形であらわれているのではないか。
介護の「家族、地域、医療」化?
もう一つの重要な指摘。介護保険は、改正を繰り返すたびに、ふたたび「家族化」し、「地域化」し、「医療化」しているのだという。その方向が危ういものであることは小竹雅子にははっきり見えるようだ。なぜなら小竹は障害者福祉をずって見続けてきて「障害者からみた介護保険」の視点になっているからだ。障害者福祉と対比すると、介護保険は当事者や当事者の家族などの声が反映されにくく、障害者福祉が開拓してきた径を逆行させる危険があるという。なぜか。介護保険が協力を求めようとしている「家族、地域、医療」こそ、障害の当事者の自立や自己決定の大きな「障害」にもなってきたものだからである。「家族、地域、医療」は諸刃の刃なのだ。その裏面を見ずに、それらの力を借りようとする現在の介護保険の制度動向は、障害者福祉の視点からは逆行(退行)だと小竹の目には映る。「病気や障害があっても、介護のある暮らし」を続けることのできる保障システムという当初の目的を退行させているからである。この指摘も重要だ。
介護保険における営利と非営利の混合
その他、介護認定の基準が施設サービスのタイムスタディを根拠にしており、在宅サービスの調査はされていないこと、在宅認定者の全国実態調査が必要なこと、ケアマネージャーの独立性を確保すべきこと、利用料の応能負担を検討すべきことなど、短いけれど重要な提言も数多くなされている。なかでも、「現金給付」を再検討すべきだという提言は、たんなる現金給付の問題だけでなく、事業者や事業所のあり方についても再考をうながす問題提起だと考える。なぜか。本書の立場が「市民福祉」を求めるものだからだ。
介護保険の発足前後には「現金給付は家族介護を固定させたり、高齢者の状態を悪化させかねないといった懸念」等の反対意見が強いので見送られたという。たしかに当時はそうした懸念が強かった(現在でもそうだ)。しかし当時あった現金給付に賛成の意見「これは介護に関する本人や家族の選択の幅を広げるという観点からも意義がある」が、現在のような介護保険利用抑制の状況のもとでは、がぜん再検討にあたいするものと見えてくる。どういうことか。
たとえば「在宅サービス」だ。それは住民参加型在宅福祉として、市民が、ボランティアや NPO として開拓し、会員制の「有償・有料」方式など多様な工夫をもって運営されてきたものだ。それが介護保険に吸収されたことによ って、非営利の人たちが培ってきたサービスと介護保険サービスとが混合されることになった。介護保険における訪問介護サービスである。しかも介護保険導入当初は、このサービスこそが、介護保険でもっとも人気のある、需要の大きいサービスでもあった。しかし本書でも指摘されているように、人気があり需要が大きいサービスゆえに、しだいに利用が抑制され、単価も切り下げられ、やがて要介護以外の要支援のサービスは介護保険本体から切り離されようとしている。在宅サービスは「成功なのに失敗」いや「成功だから失敗」という逆説状況になっているのだ。本書でいうホームヘルプの受難である。
本書では明言されていないが、この原因のひとつは、介護保険がその当初から営利と非営利とを区別しない制度設計だったからではないか。初期の制度設計にあたった厚労省のシステム研究会などでは「保険あってサービスなし」が最大の懸案事項だったそうである。基本構想の段階から、サービス体制の未整備の問題が、医療関係者から大きく取り上げられていた。医療関係の委員によれば、1961 年の国民皆保険の導入にさいして「保険あって医療なし」という懸念が払拭され医療分野のサービス体制が整備されたのは、措置制度をはずし社会保険のもとで医療供給量の整備に非常に努力をしてきたからである、というのだ。この歴史的評価は非営利研究の観点からは再検討が必要だろう。これをきっかけとして営利と非営利の混合がはじまったとも考えられるからだ。この混合は、介護保険の導入にあたっても繰り返された。結果的に、営利と非営利の混淆のような供給体制が主流になっていった(介護保険制度史研究会編、2016 などにこの初期の議論が紹介されている)。
ところで、ノーベル経済学賞を受賞するまでになった「行動経済学」によれば、営利と非営利をまぜると、市場は道徳を閉め出す、ということが、近年広く知られるようになった。これをホームヘルプ・サービスに当てはめれば、ボランティアや NPO 法人が運営していたホームヘルプ・サービスは、介護保険という(官製の)市場に包含された段階で、様々な困難に直面したはずだ。また、営利と非営利の違いを、制度の内側で提供されるサービスにおいては打ち出すことが困難だった。制度の中では違ってはいけないのだ。これらのことは、非営利の事業者にとっては、存在意義を根本から揺さぶられることだったはずだ(こうした困難な状況の中から一部の NPO 法人などでは、非営利の事業者でありながら、事業高を大きく伸ばしていく団体も数多く現れたが、それはまた別の話だ)。制度設計の段階で、営利と非営利の混合がうみだす問題は、立案者たちに深く認識されていた痕跡はない。とくに住民参加型在宅福祉サービス活動などの経験ある人たちの声は聴かれてもいなかったのではないか。制度設計の段階では NPO法も成立していなかった。ゆえに介護保険にとって医療と医療法人がひとつのモデルと見なされることになったのだろう。その傾向はいま再び強まりつつあることも紹介されている。
さて、介護保険がはじまったあとしばらくすると「保険あってサービスなし」や「サービス事業者の不足」といった懸念は払拭された。するとこんどは介護保険の総量規制の観点から、訪問介護の単価を切り下げ、さらには訪問介護から生活支援を切り離していくというプロセスが進行することになる。では、ふたたび切り離された生活支援は、ボランティアや NPO 法人に戻ってくるのか? そうはならないのだ。これこそが行動経済学の教える恐ろしい教訓だ。いちど変質してしまった価値規範は、元には戻らない。ボランティアによる家事援助や生活支援が、いちど「介護保険」という市場(疑似市場であれ)に包含されてしまうと、それを使う人々の意識や価値観は「ボランテ ィア活動」のほうには戻らないのだ。介護保険が発足した当時は、介護保険だけでは在宅生活を維持できないから、かならずボランティア団体や NPO 法人の提供する介護保険制度の「枠外サービス」(介護保険ではカバーされない在宅ニーズに応える有償・有料のサービス)が増大すると予測されていた(生活を支える両輪の理論)。しかしそうはならなかった。介護保険が発足すると、制度の「枠内」でやりくりしようとする傾向が強まり、わざわざ有償・有料の「枠外」サービスまで利用しようとする人たちは減少したのだ。これまた行動経済学の知見から説明できる。いちど制度の中で商品価格が設定されたものは、価値規範が変質し、もはやボランティア活動とは見なされなくなるからだ。要支援者は、介護保険改正をへて現在、再び市町村や市民セクターに投げ返されている(市町村の総合事業)。しかし規範はすでに変質してしまっており、単純にはボランティア活動には戻らない。これは「意図せざる結果」であるとしても、ボランティア団体や NPO 法人にとっては、大きな打撃だ。これをどう乗り越えるか。
介護保険における非営利の再構築
そこで「現金給付」の話にもどる。いちど介護保険に吸収された在宅サービスが「市民福祉」として復活・再生するには、現物給付からではなく、現金給付からではないか、と小竹は控えめながら示唆している。どういうことか。現物給付は上からの押しつけになりやすい、とりわけ利用の抑制や縮小、制限の過程では。現金給付のほうが逆説的ながら主体性や当事者性を発揮できる余地が大きい。この指摘を拡大して考えてみたい。つまり、ボランティア団体や NPO 法人が提供する「枠外サービス」を、市民が主体的に購入するという方向性のほうに、介護の社会化や市民福祉としての可能性があるのではないか、と。そちらにこそ、これまでの 18 年間の介護保険がたどってきた径とは違う可能性がある。おそらく小竹は、障害者福祉の自立生活運動などの中で、現物給付という上からの押しつけでない、当事者の主体的・能動的なサービスの利用・活用があること、それこそが、介護保険とは違う径を切り開いてきたという歴史を念頭において、介護保険における「現金給付」の再評価を求めているのではないか。それこそが介護保険における当事者主権につながるものだと。これは NPO などの非営利法人の行方にも重要な示唆を与える。
現物給付のシステムの中では、今後も利用抑制が進むだろうから、ボランティア団体や NPO 法人の存在は、ますます小さくなっていくだろう。そうした状況のなかで、介護保険が、本当に市民福祉になっていくためにはどうしたら良いか。利用者主権や当事者主権がもっと回復される必要があろう。当事者主権にかんして、介護保険は障害者福祉の歴史に学ぶべきことがある。それが小竹の主張だ。そこから、ボランティア団体や NPO 法人の提供する「枠外サービス」の再生の可能性がふたたび生じる。もちろん、行動経済学が指摘するように、一度変質してしまったホームヘルプ・サービスの意味をどう再構築するかは大きな課題だ。介護保険以前のような「ふれあい・たすけあい活動」に戻れるかどうか、難しいところだ。おなじくこれまでの枠内サービスと枠外サービスの区別なども抜本的に見直す必要があるかもしれない。NPO 法人も介護保険事業者としてだけでなく、介護保険の外で自主的・主体的に行政と協働する団体に変身する必要があろう。しかも介護保険においても、もし現金給付がはじまった場合に、ほかの事業者とどう違ったサービスを提供する団体になるのか、あらためて位置づけなおされる必要もあるだろう。そうなると制度との関わりの大きな変換になる。しかし、営利と非営利とを混合した結果、ボランティア団体や NPO法人のもつ規範的価値が変質してしまった現状を、打開するきっかけになるのではないか。小竹の「現金給付の再検討」は本書の中のわずか 1 ページ半ほどの、短い小さな提案だ。しかしそこに大きな意味を見いだすことが可能なのではないか。
参照文献
小竹雅子 『総介護社会─介護保険から問い直す』 (2018、岩波新書)
介護保険制度史研究会編著 『介護保険制度史』 (2016、社会保険研究所)
大森彌 『老いを拓く社会システム―介護保険の歩みと自治行政』 (2018、第一法規出版)
大熊由紀子 『物語介護保険(上下)』 (2010、岩波書店)
安立 清史 ( アダチ キヨシ )
九州大学 大学院人間環境学研究院 教授 ( 福祉社会学 ・ボランティア・NPO 研究 )
日本社会学会・理事 ( 社会学評論編集委員 )
福岡ユネスコ協会・理事